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批判的実在論とは

そもそも、批判的実在論とはなにか?

簡単に言えば、新しい世界の見方を示してくれるメタ理論(研究方法、研究理論を支える理論)です。ここでは哲学的な議論より、研究実践とどのように関係するのかに重点を置いて説明します。

・看護研究の難しさはどこからくるのか

いうまでもなく、看護は医療の中で行われるので、研究には実証的な知見を求められます。その看護の手法は患者のQOLをどれだけ向上させたか、させなかったか(QOLスケールによる評価)、あるいは例えば産後うつに苦しむ母親への早期の介入支援の効果(介入のあったグループとないグループでの通院歴の違い)など、客観的な指標による証拠を提供できるかどうかが、評価の分かれ目になります。
しかし、他者をケアするということは、数値だけでは表せない実践という面があるのは、臨床現場を経験した誰もが感じていることです。そのケアを受け取る人と提供する人の関係性や、どのような環境で、どのように互いの行為を解釈しているかによって、同じケアプロトコルを実行するにしても、結果が違うことはおおいにありえます。
では、看護研究は患者の解釈を理解する社会構成主義(解釈主義)を基盤とするのみ..でよいのでしょうか。それぞれの人の解釈が、その人の行動を決め、ひいては社会を動かしていくことは確かです。ただ、その解釈が、「コロナワクチンの中にはナノ単位のチップが入っている」とか、「緩和ケア病棟に入るのは医師から見捨てられることだから絶対に行きたくない」など、事実からかけ離れているとしたらどうでしょう。その場合、研究者が言えることは、このようにそれぞれの人にそれぞれの解釈がありました、ということだけなのでしょうか。果たして、それが実践に役に立つ知見と言えるか疑問が残ります。
看護研究の難しさは、「科学的」であることを要求される一方で、看護という実践が実験室の中で条件を全て同じにして行われる自然科学の実験ではないことからくるのです。ケアを受ける、またケアを提供することによってケアを受けるなど、現場で経験することの全ては、批判的実在論の用語で言う「開放システム」である社会の中で起きています。それを、実験室のような人工的に作り出された「閉鎖システム」における実験結果のように因果関係を証明せよ、と言われても同じようにはできません。
看護だけでなく、医療全般、保健、社会福祉、介護、教育、リハビリテーション、臨床心理などヒューマンサービスの多くの領域でも同様です。
ヒューマンサービス領域の研究の難しさは、単なる研究方法の選択の問題ではなく、その研究方法を成り立たせている世界の見方の違いなのです。次の項では、普段あまり意識することのない、研究方法と世界の見方について述べます。

・研究方法と世界の見方

ある温泉施設で夜遅く露天風呂に入っていたら、湯気の向こうで30代くらいの女性が2人、仕事の大変さについてお互いの愚痴を話していました。そして、「でもさ、うちみたいに大きな病院だと、師長さんになるには論文書かないといけないんだって」という話になり、「いくら仕事ができても、”論”ができないとダメで、あたしはそういうの苦手だから上にはいけないかなあ」という残念そうなつぶやきで終わりました。

保健師や助産師を含む看護職就業者は、2020年の調査では全国で173.4万人です。(厚生労働省 2024)大きな数に思えますが、まだまだ看護師の数は十分ではなく、2025年には7万人が不足すると推計されています。(厚生労働省 nd:3)これを解消するために、看護師の新規養成・復職支援・定着促進が必要と国は方針を示していますが(ibid. :8)、単に現場で働く人を増やすということだけでは解決できません。人はずっと同じことをしていれば飽きるし、疲弊するし、また歳をとります。専門看護師として自分の専門性を高めたり、管理職になったり、教職についたり、キャリアデザインとして何か別のことを求める時に、いろいろな選択肢があることが必要です。冒頭の女性のように、「上にはいけないかなあ」という希望のない状態で、肉体的にも精神的にもきつい仕事を続けるのは無理があります。

現場を経験し、キャリアアップの一つの道として、大学あるいは大学院に進学し、学位をとって教職に就くのを望む人は多いでしょう。学業に専念する余裕のある人は別ですが、多くの場合は働きながら論文を書くことになります。
仕事と学業の二足のわらじは、かなり大変なことで、とにかく、早く確実に査読を通る方法は何かと普通は考えます。ですから、その時点では、学費を払ったぶん、研究の方法を手っ取り早く教えて欲しいし、その手法に従ってやれば正しい答えが出る、というものがあれば、なによりそれが楽だと感じるでしょう。
そもそも、私たちが「知識」と呼ぶものは何であるのか。忙しい大学、大学院生活の中で、そんなことは考えなくても、いくつかの研究方法の授業をとり、指導教授に従って論文を仕上げることはできます。でも、学位を取ることが第一目的としても、研究をする意味について考える時は必ずきます。なぜなら、教える立場になった時、例えばM-GTA(修正グラウンデッド・セオリー・アプローチ)ではなぜデータの切片化をしないのか、なぜ【研究する人間】の概念を中心に置くのか、あるいは、他の質的研究法と何が違うのか、など学生から問われることになるからです。その時に、「とにかくそういう手法なんだからこの通りやって」という教え方はできません。自分自身が、方法論の基盤になっている理論、その理論を支えている世界を見る方法(認識論)、そして、その世界の見方を支える、世界はどう存在しているかという考え方(存在論)をわかっている必要があります。
私たちは簡単に「科学的」とか「実証研究」などの言葉を遣いますが、それは本当は何を意味するのでしょうか。あるいは、このジャーナルは、量的研究は受け入れてくれるが質的研究はなかなか通らない、などと言う時、それは研究方法の違いだけを意味するのでしょうか。
研究活動は、ある方法を通じて「知識」を得る営みです。研究方法を選択する時、私たちは意識している、いないに関わらず、その方法を下支えしている世界の見方(認識論)と、その前提としての世界の在り方(存在論)を選択しています。
現在ある大きな二つの潮流は、実証主義と解釈主義です。
私たちが「科学的」な研究という時、それは量的研究であるとか、無作為検出試験をしたとかいう手法の前に、その研究自体が、実証主義の認識論、ひいては存在論の上に成り立っていることを意味します。
次の項目では、認識論と存在論について説明します。(難しい哲学談義ではないので離脱しないで!)

・認識論(私たちは世界をどのように知るのか)と存在論(世界はどのようにそこにあるのか)

研究を通じて知識を得るには、実証主義と解釈主義という二つの大きな潮流があると前述しました。
ではなぜこうなっているのでしょうか。知の歴史を超特急で概説します!

むかしむかし、相当、相当長い期間、学問はキリスト教が独占するものでした。ここではヨーロッパ世界に限って話を進めますが、4〜5世紀から15世紀の約千年もの間、大雑把に言って、何かを学ぶとは聖書から学ぶことでしたし、一番重要な研究課題は、神の存在証明(つまり、神様っているよね、ということをなんとか証明すること)でした。証明、といっても、今私たちがイメージする経験や証拠によるものではなく、思弁(純粋な論理的思考だけ)や知的直観によって論理を組み立てていくのです。しかも全ては一般の人にはわからないラテン語によって行われていました。知をカトリック教会が独占するためです。なぜそんなことで一千年も過ごせたのか、今から見ると不思議にも感じますが、少しでも聖書からはみ出した「科学的」な思考や実験的な探求をする者がいれば、異端として簡単に火あぶりにされたのです。

そんなカトリックキリスト教による知の一強支配も、16世紀から17世紀にかけての宗教改革運動によってプロテスタントのキリスト教が台頭したこと、ガリレオやニュートンなどにより「科学革命」が起きたことより終わりを告げます。
17世紀後半から18世紀にかけては、「啓蒙の時代」と言われます。「暗黒の中世」に光がさしたという意味で、英語で啓蒙は、enlighten、光をあてる、とそのままです。まあ、本当に中世に生きた人たちが、まったく真っ暗な時代だよ、と思って生きていたわけではないですが、振り返って後世の人が評価をすれば、ということです。ラテン語ではなく、俗語(それぞれの地方、国で使っている言葉)で本が印刷されるようになり、知識が一般の人(といっても、裕福な階級ですが)にも手にはいるものになってきました。中世では書物は、修道士がペンで羊の皮に手書きしたものだったのに、印刷によって大量生産が可能になりました。これは、インターネットの普及と同じくらいの意味を持つ革命でした。それまではとにかく聖書に書いてあることが正しく、それ以外のことは考えるだけで死に値すると弾圧されていたのに、自然や人間を対象に自分の頭で合理的に考え探求する、といったことが可能になりました。錬金術や祈りではない、医学や医療が発展するのも18世紀からです。啓蒙の時代には、知識を共有する学会ができ始めましたが、物好きで暇な貴族のサロン的性格が強く、また哲学と科学は今のように別の分野とは考えられていませんでした。

19世紀になって、やっと知識は私たちの今の感覚に近いものになってきます。科学研究は専門分野として独立し、研究を仕事にする「科学者」が職業として成立するようになります。観察や実験によって、つまり事実に基づいて、理論や仮説を検証する実証主義の誕生です。科学技術、医学の発展は目覚ましく、進歩的であること、イコール科学的で論理的で合理的あることを意味するようになりました。イギリスでは世界で最初に産業革命が起き、封建的な社会から産業や技術、資本主義を中心とした社会に変化します。キリスト教に独占されていた知識は、こうして学者、医療者、技術者が手に入れ、活用できるものになっていきます。実証主義という考え方を提唱したのは、フランスの哲学者で社会学者のオーギュスト・コントです。1789年のフランス革命の後、社会の大混乱を経験したコントは、社会秩序を取り戻すためには、自然科学と同じように、社会を観察し調査し、科学的な方法で分析する学問が必要だと考え、社会学を創始したのです。

ここからながらく、そして今も、実証主義は自然科学、医療や社会学その他政治学などの社会科学でも、支配的な地位にあります。
実証主義は、この世界は実在の物や事実によってできているという立場にたっています。これを基礎づけ主義といいます。実際にそこにあるもの、見えるもの、さわれるものによって世界ができているなんて、当たり前のようにも思えますが、後述するように、この世界の在り方(存在論)が今危うくなってきているのです。(それについては追って説明)
さて、実証主義の考え方によれば、あらゆる事物は人間がそこにいてもいなくても、実際に存在しています。存在するものは観察でき、観察者(研究者)は、先入観のないまっさらな頭でデータを集め、原因と結果の結びつきを証明し、理論を生み出していきます。理論や仮説はデータによって検証できるし、同じ条件なら誰がやっても同じ結果になるはずで、つまり、予測が可能です。

実証主義では、世界は確かに存在し、研究者は、そこにあるもの、起きていることをそのまま受け取り(認識し)、知識を生み出すと考えます。自然科学全般、社会科学でも主に量的研究の根底には、このような存在論(世界は実際に存在する)と、認識論(研究者が観察した事実が世界である)があります。
「これは科学的な研究だ」とか「科学で証明されている」という言い方は、「これは正義である」と同様の意味を持つくらい、実証主義の持つ規範的な力は強力です。
しかし、よくよく考えると、実証主義にもつっこみどころはいろいろとあるのです。

例えば、クーンが『科学革命の構造』(1962)で明らかにしたように、科学者は、全く先入観なく実験室で対象を観察しデータを集めているわけではありません。彼らはその時代、文化における科学的業績の中で、専門家たちが支持している主流の考え方、研究例、モデル(パラダイム)の中で仕事をしています。そのパラダイムに合わないデータを見つけてしまった時、大抵の場合は、エラー、誤作動、見間違い、などとしてそのデータの存在を否定してしまいます。パラダイムはそのようにして安定した一定の期間続きますが、エラーが無視できないほど蓄積された時に、パラダイムシフト(パラダイムの転換)が起こり、新たなパラダイム(手短に言えば新たな学説)が主流派となります。これは、研究者が不正直であるというわけではなく、研究者も、自分の予測や想定、文化的背景、時代的制約から自由ではないということです。

また、実証主義の研究は、ある限定された対象を調査したにもかかわらず、それが世界を表しているように主張しがちです。
アメリカ社会学では20世紀の初めから統計的調査が重視されるようになり、(シカゴ社会学の勃興と衰退という流れはあったにせよ)、マーケティングや選挙の予測など、社会学が産業、政策や政治に参入していきます。そのような社会学の研究、研究所は稼げる仕事になり、ミルズが『社会学的想像力』で批判したように、方法が正しければそれでよい、といった手段の目的化が起きます。つまり、なんのための社会学か、なんのための研究か、ということよりも、正しい手順で実証主義的に調査をし、答えを出す、ということばかりになっていきます。
実証主義者が、大きな権力を振るった時代の社会科学では、一部のデータを精査した学者が、まるで世界を制覇したかのように、反論に対してこれこそは「科学」であると傲慢な主張をしがちでした。
たとえば、昔の医師たちが、「この薬が効かない」と訴える患者に、「そんなことはない!科学で立証されたことだから間違いない!」とご神託を下すような感じです。
しかし、「科学的に効果が立証された」と言われる薬でも、その有効性はせいぜい30%程度などということはよくあることです。患者の実感が、医師の「確かな医学的知識」と重なるとは限らないのです。

医療の世界でも、患者中心医療、ナラティブ・ベイスト・メディスンやオルタナティブ医療といった、患者の実感に寄りそう医療も必要ではないかという流れが1990年代から出てきたように、実証主義一辺倒だった社会学にも、語られた個人の体験を重視すべきだという声が上がり始めるのです。それが解釈主義の始まりです。
1950年代以降、アメリカ社会学では、社会構成主義に代表される解釈主義が台頭します。これにはいろいろな社会状況や人々の権利意識や思想の変化が関係しています。解釈主義は簡単に言えば、調査であなたはこうだ、と決めつけたり、この社会階層はこのような行動をとる、白人、黒人、男性、女性、病人、貧困層など、カテゴリーに入れて分析する学問のあり方への異議申し立てでもありました。フェミニズムの分野で社会構成主義が急速に主流になっていったのはその一例です。
解釈主義は、この世界は私たちの解釈や言説によってできているという立場にたっています。これを反基礎づけ主義といいます。そこに実際になにがあるか、ではなく、人々が出来事や経験をどう解釈しているかが重要なのです。
解釈主義の考え方によれば、あらゆる事物は人がそれを認識して解釈しなければ存在しない、あるいは存在しないのと同じです。解釈は人によって違うのだから、ただ一つの真実や、絶対に確かな存在、などというものはありません。研究者にも自身の持つ前提や解釈があります。全く中立な立場をとる観察者ではありえません。研究者は、フィールドに自分の前提とともに入り、調査協力者と相互に影響しあい、インタビューや参与観察を行います。そうして集めたデータから、人々の実践や解釈を明らかにするのです。データは、その場所、その時、その研究者と対象者の相互作用によって生み出されます。誰がやっても同じではないし、似たような条件下の調査であっても、同じ結果になるとは限りません。自然科学の実験室での実験と同じような予測可能性はありません。

解釈主義では、世界の存在は確かなものではなく、研究者は、人々の解釈を解釈する(認識する)という、二重の解釈によって知識が構築されると考えます。社会構成主義に代表される多くの質的研究、例えばエスノグラフィー、エスノメソドロジー、グラウンデッド・セオリー、ナラティブ研究、事例研究などの根底には、実証主義とは全く異なる世界の捉え方があります。すなわち、人が介在しなければ物も事実も実際に存在しているわけではないという存在論と、人々が語る解釈が世界であるという認識論です。事物が実際に存在していようがいまいが、人々の解釈によって世界は作られているということです。
あまりに強大な力をもつ実証主義への対抗軸として、解釈主義は人々の経験、感覚、実感を重視し、個々人の権利を擁護する立ち位置と考えられ、20世紀の終わりにかけて広く受け入れられました。

しかし、今度は行き過ぎた解釈主義による問題が出てきます。
解釈が人それぞれであり、人々がそれをどう解釈するかだけが世界を作っていると考えるなら、先に引いた例のように、予防注射に対するバカバカしい考えや、緩和ケアを拒否する非合理も受け入れることになってしまいます。
21世紀になり、SNSで誰もがどんな意見も同等に発信できるようになり、それぞれの解釈がそれぞれに正しい、「世界に一つだけの花」的傾向はますます顕著です。
では、知識は?事実は?実在は?
第2次トランプ政権が誕生し、世界人口の7割が権威主義的(つまり独裁的)な国に住むというこの状況を生み出したのには、解釈主義の考え方が大きく影響しているのです。
実証主義であれば、例えば、「オハイオ州スプリングフィールドでハイチからの移民がペットを食べている」とトランプが言った時、ペットの行方不明は報告されていない、とか、そもそもハイチには犬や猫を食べる習慣はない、などと証拠を挙げて反論することもできます。
しかし、いくらそんなことを言っても、解釈が世界を作る解釈主義の考え方なら、事実など関係ないのです。人々が、トランプの言うことを信じ、そのように行動すれば(つまり、スプリングフィールドに爆破予告をしたり、押しかけたりすれば)、社会はそちらの方向に動いていっていまいます。どんな嘘も、「これはオルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)だ」と言えば通ってしまうような、ポスト・トゥルース(post truth 脱真実)の世界に、私たちは生きています。
ここまで、知識の歴史を、超高速でたどり、実証主義と解釈主義がどうして二つの大きな潮流として存在しているのかを解説してきました。
実証主義と解釈主義の分断はいまや手をつけられないほど乖離し、互いに共通する言葉さえ見つけられないように見えます。これほど、事実や実在(人間の考えと関係なく実際にそこにあるもの)が軽視されている今こそ、新しい世界の捉え方が切望されています。
そして、批判的実在論は、分断を超える新しい世界の見方を私たちにもたらす理論なのです。
次項から、本題の批判的実在論の考え方に入っていきます。

・批判的実在論は不幸な二元論を超えてゆく

ここまで実証主義と解釈主義が二つの大きな潮流になっている歴史的経緯と、その存在論と認識論を説明してきました。
では、批判的実在論はどう世界を捉えるのでしょうか。
批判的実在論は、実証主義と同じように、世界は実在するという立場にたっています。また解釈主義と同じく、人々の経験と認識、そして言語が世界に影響を与えるのを認めます。
えー?!そんな、全く別の存在論と認識論のどっちもありなんて矛盾してるじゃないですか?と思うかもしれませんが、ここが批判的実在論の革新的、斬新な世界の見方の面白いところです。

批判的実在者が世界は実在する、といっても、それは実証主義と同じような単純な基礎づけ主義ではありません。
比較のために言うと、実証主義の世界の見方はこうです。
地平線までの平らな場所に、建物や、人間や動物や車や、ありとあらゆるものが存在し、その風景がずっと果てし無く続いているのを思い浮かべてください。そこでは、温暖化によって山火事が起きたり、人が争ったり、研究者が何かを発見したり、いろいろなことが起きています。実証主義では、あらゆるものは人間の認知や知覚と関係なくそこに存在している、とは言っていますが、その存在の仕方は、ただただ平坦です。(批判的実在論はこれを「フラットな(平坦)な存在論」と呼んでいます。)
批判的実在論は、世界をもっと立体的に捉えます。
まず、世界に存在しているもの、つまり実在には、2つの次元があると考えます。
1つは自存的次元です。これは私たちの認識から独立して存在している事物を指します。人間が知っていること、見えること、知覚することの外側にも、世界はあるということです。人間の認識とは関係なく存在している次元なので、自ら存在できるという意味で「自存的」という言葉を使います。(英語では intransitive)
もう1つは、意存的次元です。これは、私たちが主観を通して得ている認識や知識、そしてその認識活動(研究等)の次元です。自然科学でも社会科学でも、研究活動を通じて生産される結果や理論は、人間なしでは存在しません。人間の意識に依存している次元なので、「意存的」と呼びます。(英語ではtransitive)
これで、先ほど思い浮かべた、だだっ広い地平線まで続く事物のあり方が、少し整理されました。この実在の2つの側面を認めるならば、実証主義の世界は実在するという考え方と、解釈主義の人々の解釈が重要だという考え方の、両方を認めることができ、どちらかを選ばねばならないと悩む必要はなくなります。
そして次に、これが批判的実在論の基本にある、特徴的で、ユニークで、目が醒めるような世界の捉え方なのですが、この世界は以下の3つのドメイン(領域)で成り立っていると考えます。
ただただ広く平坦に続く世界観を一旦離れ、次の3つの層が立体的に重っている世界を想像してみてください。

経験的ドメイン(empirical domain) 人々が経験する世界
アクチュアルドメイン(actual domain) 現実的事物または出来事の領域
実在的ドメイン(real domain) 出来事を生み出す構造とメカニズム

経験的ドメインは、文字どおり私たちが経験することの領域です。通勤途中での電車の遅れ、病院での朝の引き継ぎで自分が聞くこと、また患者のバイタルを計るとき観察する数値など、私たちはいろいろなことを見たり聞いたりします。ただ、経験は事実を直接ダイレクトに脳に焼き付けるわけではなく、自分の知識、価値観、文化、器具の性能、などによる理解を通して解釈されます。これ以上は高血圧、という基準が変われば、同じ数値でも私たちは「この人の血圧は高い」と解釈するようになります。
アクチュアルドメインは、その経験のまわりにある現実的事物や出来事の領域です。私たちは世界の出来事の全てを知ることはできませんが、起きていることは、私たちの経験を作り出します。通勤途中で電車が遅れたのは、踏切に人が立ち入った、車内で急患が出た、運転手の体調不良で交代に時間がかかった、あるいはそれが全て同時に起きたのかもしれません。車内放送で知らされることもあれば、わからないこともあります。鉄道会社の人員削減でギリギリの人数で運転手を回しているため、交代要員到着まで時間がかかったなど、電車に乗っているだけでは知りようのない出来事が、勤務に遅れそうでイライラする私たちの経験を生じさせているかもしれないのです。
そして、ここが最重要なのですが、3つめの実在的ドメインは、これらすべてを生み出す構造とメカニズムの領域です。私たちの経験や、そのまわりで起きている出来事はなんらかの原因によって起きたり、起きなかったりします。その、現実の根底にある構造は、直接見たり触ったりはできませんが、私たちは経験や出来事から、どんな構造やメカニズムが働いているのかを考え、推論することができます。この3つのドメイン名は、訳者や著者によって、リアルドメインなど、カタカナで表記する場合もあります。
ここで1つ気をつけなければならないのが、実在的ドメインで意味する実在(real)と、この世界全体にあるものを意味する実在(real)は、同じ言葉で別のことを表しているので、非常に紛らわしいということです。初心者は、ここで混乱して、なにを指しているのかわからなくなるかもしれません。(私もそうでした)前述のように、実在的ドメインが意味する実在(real)は、目に見えない、深い場所に、しかし確かに存在する構造やメカニズムのことです。そして、もう1つの用法である、たとえば実在論という時の実在(real)は、3つのドメイン全てを含んだ、広い意味での実在、この世界に実際に存在するもの全てのことなのです。こんなわかりにくいことをせずに、バスカーも実在(大)と実在(小)とか、せめて分けてくれたらとも思うのですが、まあ、そういうことにはなっていないので、読むときには、その区別があるということを意識してください。

経験的ドメイン、アクチュアルドメイン、実在的ドメインという3つのドメインが、深さのあるあり方で存在している、というのが、批判的実在論の存在論であり、これを実証主義の平坦な存在論に対比して「深さのある存在論(depth ontology)」といいます。depth ontologyは、「深い存在論」「深さの存在論」などと訳されることもあります。「深い存在論」や「深さの存在論」でもいいのですが、「深い存在論」だと、ある存在論がすごく深い、という意味にも取れますし、「深さの存在論」だと、「深さ」というものについての存在論のような印象になってしまう(つまりontology of depthに)可能性も考え、ここでは「深さのある存在論」としています。
また、この深さのある存在論は、大きな流氷の塊をモデルとして考えてもいいかもしれません。流氷は頭だけが海の外に出ていて、見ることができます(経験的ドメイン)。そのすぐ下の部分は、頭の部分より大きいですが、波に揺られ、表面に出たり出なかったりします(アクチュアルドメイン)。しかし、海上には決して出ない深い部分に、途方もなく大きな体積の氷があり、その動きが、上の部分を動かしています(実在的ドメイン)。
ただし、実際の社会はいろいろな要因が影響し合う開放システムであり、ある構造やメカニズムが、必ず同じ出来事を引き起こすわけではありません。
この実在的ドメインに推論によってどこまでも迫り、社会を説明するのが、批判的実在論の目的です(推論の方法は、「アブダクション(理論的再記述)」と「リトロダクション(遡及推論)」ですが、これは用語解説でおいおい説明します)。
実在的ドメインは、実際に目で見ることはできないので、ほら、実際こうなってますよね、と目の前に提示して証明することはできません。ですから、批判的実在論が目指すのは、証明でなく、説明です。これが、批判的実在論が自らを説明社会科学と呼ぶ所以です。
批判的実在論は、知識が絶対的なものではなく、間違っている可能性があること(知識の可謬性)を認めます。(これを「認識論的相対主義」と言います。)ある結論に達しても、もしもっとよい説明があるなら、結果はいつでも議論に開かれているのです。
ただし、それは解釈主義のような、どの解釈、どの理解もその人なりに正しい、というような、行きすぎた相対主義ではありません。それでは、永遠にそれぞれが解釈を披露し合う水掛け論になってしまいます。批判的実在論は、そうならないためのストッパーとして、人間は最も妥当であるものを理性によって合理的に判断し選び取っていくことができると主張します。(これを「判断論的合理主義」といいます。)この、人間存在、人間の理性に対する根本的な信頼は、バスカーの思想の底流をなすものです。
実証主義と解釈主義、そのどちらにも肩入れすることなく、両方の良い部分を取り入れ、中をとるのではなく、あれかこれかの不毛な二元論を超えた全く新しい世界の見方を提示するのが批判的実在論というのを、わかっていただけたでしょうか。
世界は、平坦ではなく、深さのあるあり方で存在しています。そして、知識は、間違いを犯す可能性があり相対的なものですが、正しい説明にいつも開かれています。さらに人間は、いくつもの理論、説明、言説の中から、これが最も妥当であるというものを選び取る能力を持っているのです。

・批判的実在論ならば例えばどんな研究になるのか

批判的実在論の存在論と認識論がわかったところで、では、批判的実在論ならば実証主義や解釈主義と違った、どんな研究になるのか、という具体的な例を知りたくなってきますよね。
ここでは、全く架空の事例をあげて、批判的実在論では何ができるのかを示していきます。


実際に起きた出来事
A大学病院で子どもの術後管理に、原則子どもには使用しない麻酔薬を大量投与して死亡させるという医療事故が起きた


解釈主義ならば
両親の悲嘆、看護師たちの経験、医師の言い分などをインタビューして人々が経験する世界を描くことができる
→子どもの突然の死が両親の人生にどんな影響をあたえるか、医療関係者はこの事故をどう意味づけるのか、人生の危機とそれに向かう人々のレジリエンスを明らかにできる


実証主義ならば
医療事故が起きる頻度の統計や、ヒヤリハット事例のアンケート調査などから、どのような状況で起こりやすいかを数値で表せる
→医療事故が起きた時、起きる状況を明確にすることで、それを防ぐ方法も明らかになる
例えば、ICUに患者1人に対し何人の看護師が配置されているか、子どもに禁忌の薬品はそれがはっきりわかるようにパッケージに明記、色分けされているか、など


批判的実在論ならば

まず、研究のはじめの段階として、

経験的ドメイン(empirical domain) 人々が経験する世界を調査する
両親の悲嘆、看護師たちの経験、医師の言い分などをインタビューして人々がこの経験をどう解釈しているかを理解する

次の段階として(同時並行的に行ってもいいが)、
アクチュアルドメイン(actual domain) 現実的事物または出来事の領域を調査する

現場にいるひとびとのまわりで起きていることを、研究の文献レビューや統計などを使い、またアンケート調査などで明らかにしていく
例えば以下のようなことを調査(全てを行う必要はない)

医療事故が起きる頻度の統計や、ヒヤリハット事例のアンケート調査
医師、看護師の待遇やマンパワーの配置
小児看護研究の文献レビュー
医療事故に対する病院の対応
A大学病院での理事長の高額報酬と現場の待遇の悪さ
理事長への権力の集中と、現場の医療者への労働強化

アクチュアルドメインで起きている、大学病院で起こる権力の集中と医療の質より収益を重視する体制を明らかにできる

その上で、
実在的ドメイン(real domain) 出来事を生み出す構造とメカニズムを推論していく

批判的実在論では、「ある事象Xが可能であるためには、世界はどのようでなければならないか」と問いを立てる
(なぜXが可能だったのか?と言い換えることもできる)
この場合は「大学病院で起こる権力の集中と医療の質より収益を重視する体制ははぜ可能だったのか?」を問い、どのような構造があるから、その出来事が生み出されたのかを遡って推論していく

結果として、
大学病院という権力集中型の組織の構造
良質な医療と収益を上げるという相反する圧力
医療が資本主義の中で行われている限り、利潤を増やすことが目的化していく
という説明が可能かもしれない

そして、では医療における利潤追求の行き過ぎを止める歯止めを社会どのように設定できるのか、という新たな問いが生まれる

以上のように、批判的実在論ならば、ある現象をただ描くのではなく、また、平坦な存在論で目の前にあることだけに注目するのでもなく、その現象を引き起こしている、深いところにある構造やメカニズムを説明できます。
また、批判的実在論は「社会現象を説明することはそれ自体その社会現象にたいする批判をも含む。」(Danermark et al. 2002=2024: 294)と考えています。批判的実在論は実践活動を重視し、人々を苦しめる抑圧的な社会構造やシステムを批判的に説明し、それを実践家に手渡すことで、社会変革を生み出す理論なのです。

(担当 梶原はづき 2025年4月4日)


文献
厚生労働省 2024 看護師等(看護職員)の確保を巡る状況 第2回看護師等確保基本指針検討部会 参考資料2
https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/001118192.pdf (2025年2月18日閲覧)

厚生労働省 nd 医療従事者の需給に関する検討会 看護職員需給分科会 中間とりまとめ案(概要)
https://www.mhlw.go.jp/content/10805000/000554603.pdf (2025年2月18日閲覧)

佐藤春吉監修、筈井俊輔・桂悠介・梶原はづき編著 『批判的実在論入門』2025年 ナカニシヤ出版 印刷中

Danermark, Berth., Ekstrom, Mats., & Jakobsen, Liselotte. (2002). Explaining society: An
introduction to critical realism in the social sciences. London: Routledge.( =2024 佐藤春吉 監訳『社会を説明する : 批判的実在論による社会科学論』京都:ナカニシヤ出版